なぜ、本ドキュメンタリーを制作することになったのか?
プロデューサーとディレクターをインタビュー
本ドキュメンタリーのプロデューサー臼井が初めて中村医師の存在を知ったのが、当時20代後半という若さ。
密着取材を行ったのは、30代に入ってからである。
若かった彼の目に中村医師がどう映ったのか気になった。
今回、ディレクターを担当した河村も、臼井が中村医師と出会った年齢と同じくらいであった。
以下は、社内の人間である私に、プロデューサー臼井、ディレクター河村が答えてくれた、
制作マンの思いと制作ストーリーである。
「良心の実弾~医師・中村哲が遺したもの」プロデューサー臼井
Q. 臼井が中村医師を最初にインタビューすることになったきっかけは?
当時の報道部長上司がドキュメンタリストだった。
上司から、こんな人がいると、中村哲医師のことを教えてもらった。
本を買って、中村医師のことについて知る。
その当時は、中村医師について知る人もほとんどいなかった。
一番惹かれたのは、「アフガニスタン」という場所。この場所がアジアの中でも、苦悩と矛盾が詰まっている場所だったこと。
1985年 中村医師が福岡に帰国される際に撮影交渉。(ドキュメンタリー内の空港でのシーンなどは当時のアーカイブ)
1992年 初めて密着取材でアフガニスタンに同行。
Q. 実際行ってみて、アフガニスタンはどうだったか?
”茶色“という印象。
入国も困難。交通も発達しておらず、峠を3時間かけて移動したり。
通信はなし。電気なし。ロウソクで過ごす。
20日間をアフガニスタンとパキスタンで過ごす。
1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、その傷跡が国全体を覆っていた。
200万人の死者と多数の難民を出したこの状況を、中村医師は「あまりにも遠い日本には、この状況はついに伝えられることはなかった。」と言っている。
Q. 密着してみての中村医師の印象は?
ブレていない。静かな方。小さな小柄な身体とのギャップ。
あまりに中村先生がすごい人なので、何を尋ねていいのか...
返事が返ってこないこともあった。
物事の”本質“を見る人。
偉大な山のような人。
Q. 初放送はどうでしたか?
テレメン(TV朝日系列のドキュメンタリー枠) 24分ドキュメンタリーで放送。
KBCの番組では, 1週間シリーズ企画を行った。
アフガニスタンに行ったのは10月だった。20日間ステイし、テレメンの放送は12月だったので, 帰国後すぐ編集に入る。
問題が発生。プロデューサー臼井は、アフガニスタンで最後に飲んだ水があたり、肝炎に。
病院に行くと、「即、入院だね」と言われるが、編集があるからと医師に頼み込み、毎日点滴を打ちに通院し、会社に戻っては編集の毎日を送り、なんとか放送に至った。
Q. その後、中村医師との関係や本ドキュメンタリー制作に至るまでは?
密着取材以降、中村医師を見守った。
9.11のテロが大きな影響をもたらす。
空爆、内線とアフガニスタンは非常に様々な問題の中にあった。
1992年のKBCのメディアとしての初取材放送後、
他のメディアが中村医師を取材した。
1998年 日本電波ニュース
2008年 RKB
どんどん一般世間にも知られ、有名な存在になっていく中村医師を見るのが不思議であった。
Q. 今回、なぜ「良心の実弾」ドキュメンタリーを制作することになったのか?
中村医師が2019年12月に殺害された。
自分(臼井プロデューサー)が中村医師を密着取材してから28年が経っていた。
自分の中では中村医師は変わっていないだろうと思っていたが、
今回のドキュメンタリー制作は、“中村さんを探す作業” とも言えるものだった。
Q. 中村医師は変わっていたか?
変わらなかった。
昔、中村医師が言っていた言葉。“今を裏切っちゃいかんですもんね”。
中村さんはその言葉の通りに生きられた。
最後の“中村医師に捧ぐ”というメッセージのとおり(※英語版に挿入)、
自分にとっては大切なドキュメンタリー作品となった。
「大好き」な作品だ。
「良心の実弾~医師・中村哲が遺したもの」 ディレクター 河村
Q. なぜ、河村がディレクターを担当することになったのか?
報道に所属していて、県庁担当であった当時、中村さんが亡くなった時の記者会見に自分が行くことになった。
実は、この記者会見を担当するまで、中村医師のことを知らなかった。
ドキュメンタリー制作は、中村医師が12月に亡くなられた後すぐに発案され、
自分がディレクターに指名された。
Q. ドキュメンタリー制作はどうであったか?
2020年3月くらいから取材を行い(放送は2020年6月)、ペシャワール会、中村医師のご家族と、
10回くらいインタビューをしたと思う。
中村医師は、どこをとっても“中村哲”。
何十年の素材を見ても、“今の中村哲”。
テレビマンというのは、やはりネタになりそうな話題や、その人物の通った苦悩、などを探そうとする。
でも中村医師の場合は、アフガンの水堀と同じで、どれだけ掘っても、どこを掘っても、中村哲医師が出てくる。
Q. 取材や制作の課程で、印象に残っていることは?
告別式の取材にも行って、外で撮影指示やインタビューをした。
中村医師の告別式から今まで、中村医師の身近な人に密着してきてみて感じたのは、
亡くなっているのに、皆、“悲しみにくれる感じがない”。
“死んでる感じがしない”んですよ。
皆、中村医師に火をつけられている感じ。
引き継がないと、という意思。
人の心を動かす中村医師のすごさを感じた。
Q. 今回のドキュメンタリー制作を振り返って。
今回のドキュメンタリー制作は“きつかった”。
中村医師という人物を表現できるのか?
いや、できないだろうな、と思いながら制作した。
同世代の人たちに見てもらいたい。
